【記憶の倉庫】
「記憶、預けませんか?」
そう書かれた看板が、ある日突然、町のはずれに現れた。
見るからに古びた倉庫。だが、ドアの前に立っていたスーツ姿の男は、きちんと整った身なりをしており、どこか信用できそうな空気をまとっていた。
最初のうちは、だれも近づこうとしなかった。
けれど、人は慣れる。やがて一人、また一人と中に入っていき、そして出てきたときには決まって、こう言った。
「すごい…本当に忘れた。あの嫌な記憶が、まるで最初からなかったみたいだ。」
記憶の倉庫は、忘れたい記憶を一時的に預かってくれる施設だった。
預けるのは無料。身分証明書もいらない。条件はひとつ、「二度と思い出したくなったときは、どんな代償があっても責任は自分に持つこと。」
うつ、不倫、借金、いじめ、裏切り。
人々はどんどん「心のゴミ」を持ち込み、次々と“軽く”なっていった。
町は、明るく、よく笑う人であふれた。
――ように見えた。
けれど、奇妙なことが起き始めた。
道端で知らない人に突然怒鳴られた、とか、
自分の家族が急に冷たくなった、とか、
会社で自分だけが話の輪に入れない、とか。
なぜか、人間関係の“つながり”が、ゆっくりと崩れていくような違和感が、町全体に広がっていったのだ。
ある日、一人の青年が倉庫に再び訪れた。
彼は、昔付き合っていた恋人の記憶を預けていたが、
「やっぱり、あの思い出を取り戻したい」と思い直したのだ。
「思い出すには、代償がいります」
男は冷たく言った。
「あなたが“あの時の自分”に戻る必要があります」
「つまり、記憶を取り戻したいなら、当時の苦しみや葛藤、人間関係や背景すべてを背負いなおさなければなりません」
青年は黙った。
そして黙ったまま、ドアの前から立ち去った。
二度と、戻ってくることはなかった。
それから数年。
記憶の倉庫は、いつの間にか町のあちこちに支店を構えはじめ、
今では国の制度として導入されている。
人々は今日も、笑顔で忘れていく。
都合の悪いこと、不快な出来事、罪、責任――
まるでそれが、「人間としての成長」ではないかのように。
倉庫の男は言う。
「人生が軽いほど、人は自由だと錯覚します。
けれど、本当に自由なのは、“重み”に耐えながら進んでいける者だけですよ」
もちろん、その言葉を覚えている者はいない。
彼に、記憶を預けたからだ。